研究の背景
分配的平等主義には、なぜ特定の分配状態を望ましいとみなすのかという正当化上の課題がある。関係論的平等主義からは、財の分布だけを直接評価する議論は恣意的になり得るとの批判が提示されてきた。本稿はこの問題に対し、「道徳的行為者への平等な尊重」という理念から分配原理を導き、その原理として無条件かつ一律給付のベーシックインカム(BI)を正当化できるかを検討する。
焦点はBIを実施したときの雇用・財政効果ではなく、BIが規範的に望ましい制度原理かどうかにある。著者らは理想理論上の議論であることを明示し、行為者性の行使に「充分な」所得を給付するBIを想定する。具体的な給付額、財源、移行過程は分析対象にしていない。
方法と対象
実証データを用いない政治哲学上の規範理論・概念分析である。議論は次の順序で組み立てられる。
- 道徳的行為者への尊重を、過去の選択と結果を対応させる「過去志向的尊重」と、これから選択するための条件を保障する「未来志向的尊重」に分ける
- 未来志向的尊重を優先すべき理由を示し、その条件を「多様な選択肢の保障」と「自尊心の確保」に整理する
- BIの無条件性と一律性が、この二条件を満たすと論証する
- ただ乗り、能力差、所得・環境差に応じた給付を求める三系統の批判へ応答する
ここでいう道徳的行為者とは、熟慮して選択する能力を持ち、望む生き方に向けて選択することに価値を置く者である。未来志向的尊重は、単に選択できるだけでなく、望む生き方を実行可能な選択肢があることを重視する。
結果
平等な尊重は二つの条件を要請する
著者らは、過去の選択に責任を負わせることより、将来に向けて意味のある選択を行える条件の保障を優先する。例えば、過去の無謀な選択による負傷であっても、高額な医療費を本人だけに負わせて将来の選択可能性を奪うなら、行為者への未来志向的尊重に反する。
この立場から、分配原理は次の二条件を満たす必要があるとする。
| 条件 | 内容 | 損なわれる例 |
|---|---|---|
| 多様な選択肢の保障 | 選択肢の数だけでなく、実際に選べるだけの財を保障する | 有害な職場で働くか、貧困になるかしか選べない |
| 自尊心の確保 | 自分が熟慮し、生き方を選べる行為者だという自信を守る | 給付の資格調査で能力不足や依存を証明させられる |
財の生産・獲得過程を公正にする原理も別途必要だが、本稿はまず、行為者性の行使に充分な財を保障する分配原理へ対象を絞る。
無条件性は労働以外の選択肢を実質化する
充分な所得を労働要件なしで給付すれば、望まない労働を断る、学習・ケア・社会活動へ時間を振り向ける、自己実現に合う仕事を探すといった選択が実行可能になる。著者らは、単に現金を渡すことではなく、所得保障の過程で特定の職業や生き方を強制しないことを重視する。
ただ乗り批判に対しては、人々が社会貢献を望まなくなるとは限らず、追加所得を得るための労働インセンティブも残ると応答する。ただしこれは実証推定ではなく、人間の動機に関する規範的・一般的議論と既存の世論調査への参照である。
国内外の外国籍労働者へのただ乗りという批判については、継続的な居住者を国籍にかかわらず給付対象にし、各国でBIと公正な市場規則を整備すべきだとする。搾取はBI単独で解決する問題ではなく、生産・獲得過程を統制する別の原理が担うべきだという役割分担を示す。
一律性は選別のメッセージを避ける
所得や能力に応じて給付額を変えるには、誰が不足しているかを資格調査で判定する必要がある。その調査は受給者に「行為者としての能力が低い」という否定的な意味を与え、自尊心を損なう可能性がある。全員への同額給付なら、この選別を回避できるというのが一律性の主な根拠である。
著者らは、一律BIだけですべてのニーズを満たせるとは主張しない。障害などで同じ所得から実現できる選択肢が異なる場合は、包摂的な社会環境、医療、車椅子などのサービス・現物支援を併用すべきだとする。また、貧困地域の教育機会の不足には、個人別のBI増額だけでなく教育環境そのものの改善が必要だと論じる。
富裕者への給付で財源が薄まるとの批判には、給付は一律でも課税を累進的にすればよいと応答する。課税のための所得調査は公正な負担を決めるものであり、給付資格調査のように本人の行為者性へ否定的な意味を付与しないと区別する。
結論の射程
本稿の結論は、無条件・一律BIが、未来の選択可能性と自尊心を同時に支える分配原理として正当化できるというものである。BIを単独の万能制度とせず、市場規則、社会環境、個別サービスなど他の原理・制度と組み合わせる点も重要な結論である。
一方、給付水準の決定、必要財源、物価・賃金・労働供給への影響、行政実装は検証していない。著者ら自身も、理想理論と実証研究を接続して初めて政策導入を包括的に論じられるとしている。
日本に当てはめるときの注意
最大の障害は、理想理論上の正当化であり、日本でBIが実行可能または有効だと実証した論文ではないことである。
- 「行為者性の行使に充分な額」を前提にするが、その金額や所得・消費・住宅費との対応は示していない
- 労働供給が社会維持を損なうほど減らないという応答は、本稿内の因果推定ではない。政策判断には実験・労働市場研究との接続が必要である
- 一律BIに加え、障害・医療・教育・アクセシビリティ等のサービスを維持・拡充する構想である。既存社会保障をBIへ全面置換する根拠にはならない
- 給付対象は単純な国籍基準ではなく継続的居住者を想定するが、在留資格、納税、国外居住、越境労働の具体的境界は未設計である
- 累進課税で財源を確保できるという規範的応答はあるが、税率、課税単位、租税回避、マクロ経済への影響は分析していない
- 「資格調査は自尊心を損なうが課税調査は損なわない」という区別は重要な仮説だが、日本の受給者・納税者を対象に測定した結果ではない
- 本研究はJSPS科研費22KJ2874の助成を受け、2名の匿名査読者を含む研究者からコメントを得た。独立した利益相反申告欄はない
