研究の背景
UBIはケニア、フィンランド、ナミビア、インド、カナダなど、性格の異なる国々で実験されてきた。米国では20世紀後半にキング牧師やフリードマンを通じて議論されたが、その後数十年は下火だった。
流れが変わったのは2016年頃。元SEIU(国際サービス従業員組合)会長のAndrew Stern、元労働長官のRobert B. Reich、未来学者のMartin Fordらが相次いで論じ、Y Combinatorがオークランドで実験を開始、Economic Security Projectが設立され、カリフォルニア州ストックトン市長が2019年開始のパイロット計画を発表した。所得・資産格差の拡大、労働の不安定化、極貧の固定化も要因だが、復活を主に説明するのは、自動化が前例のない規模で労働者を市場から追い出すという恐れである(シリコンバレー周辺の支持者を含む)。
思想的系譜は重層的で、しばしば互いに矛盾する。社会民主主義・アナキズム・社会主義に根を持つ一方、トマス・ペイン(1797、成人時の一時金)、ベルギーの社会主義者Joseph Charlier(1848、「領土配当」)、James Meade(1930年代以降、「社会配当」)といった先駆者がいる。人種差別下の失業と貧困を背景に、キング牧師(1967)、ブラックパンサー党、James Boggs(1968)も保証所得を戦略として検討した。1970年代の「家事労働に賃金を」運動などフェミニズムも、男性稼ぎ手モデルを弱める手段として労働から切り離された所得を論じた。さらに新自由主義にも足場があり、フリードマンは負の所得税(NIT)を擁護した。
哲学者がUBIに強い関心を寄せるのは、この提案が正義について私たちが抱く最も定着した直観に挑戦するからである。UBIは金持ちにも貧乏人にも、健常者にも障害者にも、働く者にも働かない者にも与えられる。公的扶助に「値する」とされてきた人と「値しない」とされてきた人を区別しない。見返りを求めずに誰にでも提供すべきだという発想は、生産性の重視やプロテスタント的労働倫理と鋭く緊張する。
UBI研究は学際的である。経済学者はランダム化比較試験の実証結果から「貧者は浪費家で怠惰」という通念に疑問を投げかけ、社会学者は寄生への恐れを和らげるべく貧困神話を批判してきた。政治理論家はそうした議論の上に立ちつつ、道徳的反論に応答することを固有の貢献としてきた。
方法と対象
実証研究ではなく、政治理論・規範理論の文献レビュー。前史にも触れるが、中心はVan Parijsの1991年論文「Why Surfers Should Be Fed」と1995年『Real Freedom for All』以降の現代的論争。構成は以下の通り。
- UBIの5つの定義的特徴
- 自由の理念をめぐる論争(実質的自由、完全主義・パターナリズム、責任・互恵性)
- 平等の理念をめぐる論争(共和主義、社会的平等主義)
- ジェンダー不平等と人種的不正義への焦点化
- 今後の研究課題(4つの観察)
結果
1. UBIの5つの定義的特徴
提案は思想的立場によって異なるが、以下の5点はおおむね一定している。
| 特徴 | 内容 | 動機 |
|---|---|---|
| 現金(vs 現物) | フードスタンプや家主への直接支払いと異なり、使途は受給者の自由 | 国家のパターナリズムからの自由。市場を歪めずに貧者を消費者にする |
| 個人単位(vs 世帯単位) | 裕福な世帯にいても受給できる | 家庭内の支配からの脱出の選択肢。女性のエンパワメント |
| 無条件(vs 条件つき) | 就労要件も制裁もない | 自由・選択・尊厳・平等 |
| 普遍的(vs 資力調査) | 富裕層も受給(多くは課税で回収) | 受給のスティグマ解消、捕捉率の改善 |
| 定期給付(vs 一括) | 多くは月次、少数は週次・年次 | 生涯のどの時点でも下限を割らせない |
補足すべき論点がいくつかある。
- 個人単位化の含意:資力調査型の制度は世帯所得で資格を判定するため、裕福なパートナーに依存する無収入の配偶者は受給資格を持たない。家族は連帯と支援の場であると同時に、争いと支配の場でもあり得る。若年成人も「見えない被扶養者」であり、フランスのRSAはその例。子どももUBIの対象だが減額され、親に支払われるのが多数説。子どものUBIの代わり(または追加)に、出生時に国が拠出する投資口座=ベビーボンドを擁護する論者もいる
- 無条件性の意味:英国では、週あたりの応募数が足りない、面談を欠席・遅刻する、求人を断る、「就労可能」と判定される、といった理由で給付を失う。制度は不正受給を疑う前提で設計され、フリーライダーを選別・抑止するようにできている
- 普遍性の逆説:受給者であること自体が強くスティグマ化されるため、多くの有資格者は「福祉たかり」「福祉の女王」と貶められるくらいなら貧しいままでいることを選ぶ。捕捉率が低いのはこのため。ほかに、住所の提示が必要といった排他的な資格要件や複雑な申請手続きも障壁になる。全員を受給者にすることが、この問題への急進的な解決になる。普遍的給付は標的型より人気があり制度として安定するという証拠もある
- 定期給付の対抗案:Basic Capital(Ackerman & Alstottは21歳時点で8万ドルの元手を提案)。UBI論者が定期給付を選ぶのは、一括給付は使い果たしてしまえば終わりだからである
論者によって大きく異なる点は、財源、給付水準、組み合わせる政策パッケージの3つ。財源は所得税・資産税・消費税・金融取引税・炭素税など。アラスカ配当基金は再分配的でない政府系ファンド型という代替を体現する。水準は米国では月1,000ドルが例示的基準だが、月500ドル以下、あるいはGDPの4分の1といった提案もある。何を代替するかは文脈依存で、保守側にはメディケアを含む福祉給付の置き換えとして提案する論者(Murray 2016)もいるが、政治理論家の圧倒的多数はUBIをセーフティネットの拡張・補完と位置づけ、同時に国民皆保険・公教育・手頃な住宅を擁護する。
2. 自由をめぐる論争
Van Parijsの実質的自由論
Van Parijsは、課税は自己所有権の侵害だとするリバタリアン(典型的にはNozick)に対し、生存に必要な資源へのアクセスなしに真に自分を所有することはできないと反論する。真に自由を重視するなら、一部の人ではなく万人の自由を、それも最も恵まれない者の自由が最大になるよう(マキシミン)社会を設計すべきである。ここでの「実質的自由」とは、したいと思うかもしれないことをする自由であり、形式的な権利だけでなく実際にそうする能力を含む。ロールズの言う「自由の価値」への配慮である。
財源は「不当利得(undeserved gifts)」への課税で賄われるため、自己所有権を犠牲にしない。相続財産だけでなく、特権的な職に伴う「雇用レント」も含まれる点が独創的である。良い職の配分には差別・運・えこひいき・各種の特権が大きく作用しているのだから、それらは再分配されるべき富の一部だという理屈である。
完全主義・パターナリズムからの批判
「良く生きること(flourishing)を促進すべきだ」とする完全主義は、何でも好きなことをする自由ではなく、良き生に不可欠と分かっている自由の行使を可能にすべきだと説く。Van Parijs自身、UBIは特定の善き生の構想を育てたい者にとっては極めて粗雑な道具だと認めている。
UBIの文脈では、完全主義はしばしば労働擁護の形をとる。雇用を通じた主体性の発揮は良き生・尊厳ある生に重要であり、職は「労働の善」——共同体への貢献、他者からの承認、職能に伴う卓越、人間関係——へのアクセスを与える。国家パターナリズムの側からは、「どんな職でも無職より良い」(Layard)という主張が貧困対策の就労重視を正当化してきた。UBIの有力な競合案である仕事保障(job guarantee)は、就労意思を条件にする代わりに、失業者を仕事に戻す責任を個人ではなく国家に負わせる。
これに対するUBI側の応答は3つ。
- 自由主義的な個人の選択の擁護:重要なのは人々が最も望むことをできることであって、他人が良いと考えることをできることではない
- 雇用の実態:現に給付受給者が就ける職の多くは、屈辱的・卑下的・危険・抑圧的・無力化・孤立化させるもので、「労働の善」を提供していない。労働市場はますます不安定な機会ばかりを差し出す
- UBIは反労働ではない:不安定就労者を財政的に支え交渉力を高めることで労働条件を改善し得る。またアクティビズム、ボランティア、ケアといった労働市場外の労働を可能にする。Barryは、失業給付の受給者が常に「就労可能」でなければならないという条件は、資格向上・地域活動・隣人の手助けを不可能にする点で不合理だと批判した
ただし著者は、UBIが反完全主義・反パターナリズムの純粋な体現ではない点も指摘する。初期にはマルクス主義的完全主義(生計のために働く必要から解放され、本質的に報われる労働を実践できる)と親和的なものとして提示された。またUBIは多くの提案で譲渡・担保化が禁じられており、将来の給付を担保に借入れることは認められない。これは個人がUBIでできることを大きく制約する(住宅購入や事業投資に使えない)。この制約は、UBIをパターナリズムからの自由の道具と位置づけたい論者には問題だが、平等主義の観点から擁護する論者にはあまり問題にならない。
責任と互恵性からの批判
条件を付けたがるのは完全主義やパターナリズムだけが理由ではなく、働くことは受給者の責任だと考えられているからでもある。ロールズは、一日中サーフィンすると決めた人を補助する制度を設計すべきではない、サーファーが所得を望むなら生産能力を使わねばならない、と述べた。ドゥオーキンも「たかり屋」や浜辺で貝を拾うような非生産的活動をする者に所得の権利があるという考えを退けた。これは搾取批判(exploitation objection)と呼ばれる。
Van Parijsの応答は、ロールズやドゥオーキンこそ自らの自由主義的中立性の約束を破っており、正義構想に「生産主義的(productivist)」バイアスがあるというもの。懸命に働きたい「Crazies」を、あまり働きたくない「Lazies」より優遇する理由はない。UBIの下でもCraziesは労働所得と保証所得を合算できるので結局は豊かになるし、Laziesが同じ職を奪い合わないという利益も得る。財源が不当利得への課税である以上、不公正でも搾取でもない。
理想的条件下でUBIが公正と両立しないと考える人にも、現実の不正義な社会ではUBIを支持する現実的理由がある。Graeberの言う「ブルシット・ジョブ」のような、不安定・卑下的・危険・疎外的・無意味な職に恵まれない人を押し込んでいるとしたら、Shelbyが言うように、不正な背景条件の下では働く義務は割り引いて考えねばならない。そうした状況で働くことを拒む人には正当な理由があるかもしれず、同胞市民に不正を働いているとは言えない。またWhiteが言うように、互恵性の価値が妥当するための背景条件の一つは、ケア労働やボランティアを含む多様な参加形態が承認されることである。
互恵性の議論から自然に導かれる有力な対抗案が、Atkinson(2015)の参加所得——非公式なものを含む貢献に報いる基本所得である。しかしUBI論者の多くは、資格要件を満たすだけの働きをしているか確認するために膨大な官僚制が必要になることを懸念する。市民生活へのそうした統制と侵入は、実際には非自由主義的で無駄が多い。著者自身は、互恵性が自由・選択・無条件の充足・機会といった価値を上回るほど高順位にあるとは考えず、これらの価値はむしろUBIを指し示すと述べる。
3. 平等をめぐる論争
左派の批判者には、UBIは怪しくリバタリアン的に見える。平等主義的な政策といえば貧富の差を縮めるものを想像するが、UBIは全員に配られるのでその意味での不平等縮小には見えない。実際、UBIはリバタリアンを惹きつけ、労働組合には反対されてきた。左派の懐疑論者は、UBI論者が社会主義の背骨である職と労働者階級の利益をあまりに簡単に手放していると考える。またUBIが万能薬として売られれば市場規制を不要に見せ、全速力の自動化を許容させかねないという懸念もある。さらにAndersonは、まともな機能水準に達するのに多くの資源を要する人と、少なくて済む人を区別しない点を批判する。
しかし著者は、UBIは平等の道具としても理解できると論じる。
共和主義は、リベラルの「不干渉としての自由」もVan Parijsの「したいと思うかもしれないことをする自由」も退け、非支配を根拠にUBIを擁護する。共和主義の正義構想はリバタリアンより関係的で、他者や国家による支配的コントロールの有無に焦点を当てる。ルソーに従い、買収されるほど貧しい者も、他者を奴隷にできるほど富める者もいない社会を目指す。Widerquistの「独立主義(independentarianism)」も、配偶者や上司による虐待と支配に対する「ノーと言う自由」としてUBIを擁護する。
社会的平等主義(Elizabeth Anderson、Iris Marion Young、Samuel Scheffler、Debra Satz、Tim Scanlon、Martin O'Neill、Jonathan Wolffら)は、支配と抑圧からの自由、対等な社会的地位・身分・尊重・政治的権力を中心に据える。ドゥオーキンのような運の平等主義者ほど個人の責任を重視せず、自分の選択のせいであっても誰かが臨界線を割ることを許容しない。制裁や給付停止は人を様々な形で抑圧に対して脆弱にする。
著者は、無条件の所得の下限は社会的平等主義の理想とよく結びつくと論じる。具体的には——
- 労働のヒエラルキーと分断を減らす。多くの給付制度の「就労活性化」への偏重は、商品化されない活動の価値を貶めている。ケア労働などを可能にすることで、商品化が生むヒエラルキーを揺るがせる
- 行動を条件とする給付の提供過程で起きる微細な支配と幼児扱いを減らす。福祉のアドバイザーや監督官は請求者を監視し、生活に立ち入り、不履行を罰する裁量権を与えられている。給付を無条件の権利にすれば、福祉職員の役割は監督者から助言者へ変わる
- 貧者の悪魔化を終わらせる。「値しない下層階級」「福祉の女王」「福祉たかり」を選別しようとする執着は、最も脆弱な人々の対等な地位を掘り崩す有害で分断的なレトリックを生んできた。普遍的給付は、この非民主的なレトリックから離れ、自尊の社会的基盤を守る助けになる
4. ジェンダー不平等
UBIがジェンダー不平等を是正し得る第一の経路は個人単位性である。多くの制度は世帯単位で資格を判定するため、経済的に依存する配偶者から虐待を受けている人が自力で逃れるのが特に難しい。Connerの整理によれば、虐待者はパートナーの経済的依存によって力を得る一方、被害者の自律性は経済的手段による支配によって損なわれる。経済的不安定は、いったん逃れた女性が結局は和解要求に応じてしまう最大の理由の一つでもある。この論点は文献上ほとんど争いがない。ただし著者は、これはUBIそのものの論拠にはならないとも注意する。個人単位で資力調査つき・軽度に条件つきの給付でも、配偶者への経済的依存を掘り崩すには足りるからである。
真に普遍的・無条件の基本所得をジェンダー正義に結びつけるのは、むしろケア労働の適正な報酬への貢献だと著者は提起する。フェミニストの政治理論家はジェンダー公正な社会の姿では一致しないが、ケア労働の適正な評価が中心的だという点では一致している。
- Gheaus:ジェンダー対称的な生き方のコストが、男女双方にとって非対称的な生き方のコスト以下である社会が公正な社会
- Zelleke(Fraserを踏まえて):性別分業の脱安定化が必要。Fraserの3モデル(女性の就労を促す普遍的稼ぎ手モデル/無償のケア労働者に正規雇用並みの権利と報酬を与えるケア提供者同等モデル/ケアを中心に社会制度を再編し伝統的に女性的とされた労働を規範に据える普遍的ケア提供者モデル)のうち、前二者は男性中心的として退け、ケア労働が再評価・承認・再分配される市民権構想を支持する。女性を男性の生き方に合わせさせるのではなく、男性の生き方を変える
- Weeks:生産主義的な心性からの解放。フェミニストの要求はより多く・より良い労働だけでなく、より少ない労働にも向けられるべき。有償労働も家族労働も特権化されない社会。Van Parijsが生産主義的バイアスを批判したのと似ているが、Weeksが標的にするのはより政治的・社会学的に重要な階層——公式の賃労働に就く人と、より非公式に働く人のあいだの階層である
反論もある。 普遍的な補償は補償ではない、という批判——ケア提供者もUBIを受け取るが、無頓着なマリブのサーファーも受け取る。対抗案のケア提供者手当(caregiver grant)は、家族内で低賃金の配偶者の方がケアのために離職しやすくなるという問題を抱える(Zelleke)。しかしGheausは、UBIもケア提供者手当と同じ問題含みの帰結を持ちうると論じる。ケアの捉え方に強いパラダイム転換がない限り、ジェンダー化された社会規範と機会の不均等により女性が男性より高い率で労働市場から降りれば、UBIはジェンダー規範をかえって強化する危険がある。UBIは総じて人々が自分の選好を追求するコストを下げるが、まさにその特徴こそがリベラルには魅力的で、フェミニストには懸念材料なのだとGheausは言う。さらにBergmannは、UBIは非常に高額なので、保育・教育・住宅・ソーシャルワークなど女性のエンパワメントに不可欠な支出を圧迫しかねず、逆効果ですらあり得ると論じる。
著者はこの節を3つのコメントで締める。
- 論争の帰趨はいまや価値より実証に依存する(Robeyns)。ここで論じたフェミニストたちは、ジェンダー規範への挑戦とケア労働の再評価の必要ではおおむね一致し、UBI下で何が起きるかの仮説で対立している。この不一致は世界各地の実験に研究課題を設定する。異なる制度的文脈でジェンダーと労働の複合効果がどうなるかを解明しなければならない。多くの職が疎外的で不安定である以上、女性の就業率低下が総合的に見て遺憾かどうかは自明ではない。Weeksの言うように、組立ラインへの隷属から解放されて台所の流しへの隷属に移るのでは解放ではない。どの女性がどの職を諦め、代わりに何をするのかを精確に知る必要がある。UBIが公共財の予算を削るという懸念がどの程度妥当かも実証的に検討されるべきで、そのためには各種UBI提案の打ち出し方と受け止められ方(累進的な提案の方が逆進的な提案より人気があるか)も研究対象になる
- 女性の内部の異質性。最も脆弱な女性の状況から出発すべきである。多くの女性にとって主要問題は正規雇用の欠如ではなく、スティグマ化されたり貧困・依存の生活を強いられたりせずに望むケア労働を行えないことである。別の女性にとっては過重労働——子どもを養うために低賃金の仕事を複数掛け持ちし、その子と過ごす時間が残らない——が問題である。社会的に不可視化されがちな家事労働者の多くは、脱出の選択肢がないために虐待的な雇用主に縛られている。同じく経済的安全の欠如はセックスワーカーを虐待に対して脆弱にしており、Sex Workers Open Universityは、英国の全員がUBIを受給していれば絶対的貧困によって性を売ることに追い込まれる者はいなくなるとして、UBIを要求している
- 総合判断(all-things-considered judgment)の必要。フェミニズムを支える平等主義的原理は人種的平等や反エイブリズム、階級ヒエラルキー批判をも支えている以上、平等主義的観点からUBIが望ましいかは総合的に判断されねばならない。UBIはジェンダー平等の道具としては次善・三善かもしれないが、他の多様な平等主義的目標について常に上位に現れる唯一のセーフティネットでもあり得る
5. 人種的不正義
キング牧師の最後の著書『Where Do We Go from Here: Chaos or Community』(1967)では、保証所得が貧困への最も単純かつ効果的な解決として提示される。キングは、貧困を個人の無能力や不道徳の結果と見る古い時代から、市場の失敗と人々を失業に追い込む差別的慣行に由来すると理解する新しい時代への「文化的変化」を歓迎し、その転換ゆえに保証所得のような急進的提案が受け入れられ得ると期待した。
1966年10月、保証所得はブラックパンサー党の十項目綱領の第2項にも登場する。それは白人実業家の差別的慣行に一部起因するアフリカ系アメリカ人の非自発的失業への補償として構想された。提案は急進的で、連邦政府が市民にまともな所得を保障できないなら、生産手段をコミュニティに返還して構成員に良好な生活水準を保障すべきだというものだった。数十年後、Movement for Black Livesも経済正義綱領の一部としてUBIの一形態を支持している。
UBIが当時も現在も人種的平等に関わるのは、失業・不完全就業・不安定就労・劣悪な職が有色人種の生活に不均衡に影響するからである。これは依然として残る差別的慣行のためであり、また教育・訓練・機会へのアクセスにおけるより広範な不平等のためでもある(Shelby)。興味深いことに、キングもブラックパンサー党も保証所得「または」保証雇用を主張しており、両者をある程度互換的なものと見ていた。どちらも貧困緩和を通じて尊厳を回復する政策だからである。保証所得は仕事保障案への牽制としても働く。十分に高いUBIがあれば、受給者は所得以上のものを与える「まともな」職しか引き受けなくなるからだ。親族のケア、地域でのボランティア、起業の方が良い選択肢に見えるなら、保障計画の下の職を受け入れるよう強制されることはない。これはStandingの「所得への権利は労働への意味ある権利の前提条件だ」という応答と重なる。
現代の人種正義からのUBI提案はWarren(2016)のMovement for Black Lives綱領に見られる。
- 多くのUBI提案の下では(Murray案のように最も恵まれない層の給付総額をむしろ減らすものを除けば)最も不利な立場の人が最も多く得る。米国の黒人世帯は資産・所得分布の底に不均衡に位置し、黒人労働者の失業率は白人労働者の2倍だからである
- 普遍性への commitment は、政府が重罪犯・元受刑者をセーフティネットから排除することを難しくする。「値する者」を狙い「値しない者」をふるい落とす設計の制度では、刑事司法に巻き込まれた人はより容易に排除される。刑務所における有色人種の過剰代表と、元受刑者が労働市場で受ける差別を考えれば、これは人種正義にとって重要である
- UBIは既存の福祉制度に蔓延する人種的な紋切り型と怨恨を解体し得る。怠惰な黒人の若者や福祉受給の母親という人種差別的ステレオタイプは、必要としている人に受給をためらわせ、低い捕捉率の一因となっている。またステレオタイプは受給者を辱め、就労へと追い立てる手段としても働く。さらに人種的怨恨が福祉への支持を下げるという証拠は豊富にある。実際には非白人が白人より多く受益していない制度についてすら、怠惰な黒人受給者という神話が福祉バックラッシュを生む。全員が受給する制度なら、対象集団をスティグマ化しにくい
しかし著者は、1960年代の議論も近年の議論も政治理論の文献では十分に取り上げられておらず、Shelbyの寄与を除けば人種正義の観点からUBIを論じたものはほとんどないと指摘する。そして、この領域には平等と普遍性の緊張という中心的論点があると述べる。不平等を正すには恵まれた者と恵まれない者の差を縮めるのが筋だと考えがちであり、そう考えると標的主義の方が平等の側に、普遍主義はそうでない側に見える。この論点ゆえに多くの進歩派はUBIを「良くて非効率、悪くすれば無駄」と切り捨ててきた。
これに対し、普遍性こそ平等の側にあると考える理由がある。第一に、最も恵まれない層にスティグマの少ない形で給付を届け、尊厳と社会的地位を保てる。第二に、普遍的給付と標的化された賠償を組み合わせる案がある——WarrenのUniversal Plus Basic Incomeは、全員が基本所得を受け取ったうえで、アフリカ系アメリカ人に追加額を配分する。ただし、制度的人種差別の存在を認めることにすら概して消極的な文脈で政治的に実現可能かは不明である。
そしてここから著者は最後の問いを立てる。標的主義対普遍主義の議論において、政治理論家は政治的実現可能性をどう考えるべきか。 文脈によっては普遍主義の方が訴えやすいかもしれない——とりわけ受給者がメディアに「たかり」「福祉の女王」として貶められている場合には。しかし普遍主義の方が政治的に実現しやすいというだけなら、私たちは間違った理由で政策を支持することにならないか。恵まれない人には支援が値すると考え、公的扶助の拒絶は偏見に基づく誤りだと信じるなら、その拒絶を迂回して悪魔化を所与として受け入れるのではなく、拒絶そのものに挑むべきではないか。平等主義者ならむしろ賠償という選択肢を主張するのではないか。普遍性についてはもっと書かれるべきであり、米国の人種的不平等の文脈はそのための特に重要な舞台である。
6. 今後の研究課題(4つの観察)
(1) 政治理論に固有の役割の再考
UBI論争において政治理論家が担う役割そのものを正面から扱うメタ理論的作業が必要である。一方の極には、「サーファーは養われるべきだ」——彼らにその資格がある、それは権利だ、私たちは彼らに負っている、公正がそれを要求する——ことを示す理想理論的な擁護がある。ここでUBIは実証的事実や実際的思考ではなく価値の根拠で擁護される。他方の極には、非理想理論——様々な仕方で不正な私たちの社会にこそUBIが必要だと論じる立場——がある。この陣営の理論家は、完全に公正な社会でUBIが要請されるかどうかを気にする必要はない。ここでの政治理論家の仕事は、規範的理想を動員して差し迫った社会的不正義を特定し、それがUBIによって部分的に緩和できるかを問うことである。両者の間には、価値と事実、実際的関心とヴィジョンが並び立つ広大な空間がある。両方の視点からの研究、対立するパラダイムから生じる政策をどう裁定するかの研究、そして公共政策について政治理論を行うとは何を意味するのかを問う研究が必要である。
またジェンダーの議論が示したように、政治理論家は現金給付の社会科学と広範に関わらねばならない。規範理論家は実証研究者が取り組むべき研究課題を設定する独自の位置にある。UBIの政治理論はすでに、検証を待つ規範的に重要な仮説を数多く掘り起こしてきた——UBIがケア労働を促すか、労働者の交渉力を高めるか、メンタルヘルスに正の効果を持つか、など。
(2) 変化する公共的言説と新しい声への応答
UBIの政治理論は公共的な議論に応答的だったが、時代が変わった。重要な新論点が自動化と労働の未来である。技術的失業は近年の米国でUBIが語られる圧倒的に主要な角度でありながら、その議論を精査する政治理論はほとんどない。UBIと労働の未来の関係は明確化されないままである。この一見単純な議論には、少なくとも2つのバグがある。
- 第一に、労働の価値をめぐる議論を真剣に受け止めるなら、UBIは失われた職の代替として不十分に見える。職を失う人は所得だけでなく、労働共同体・目的意識・それに伴う尊厳をも失う
- 第二に、UBIは私たちが受け入れるべきでないものを受け入れさせる薬になりかねない。利潤に駆動され民衆の統制によらない職の消滅を、である。UBIが移行を円滑にするなら、それは歯止めなき新自由主義のトロイの木馬になり得る——自動化の手段を所有する少数への権力と富の集中に対して、労働者階級と中間層が反乱を起こすのを防ぐ緩和剤として。枠組みとして、論証装置として、動機づけとして、自動化はUBIの進歩的アジェンダにとってむしろ有害かもしれない
同時に、草の根運動からの新しい議論と対立も規範的論争を豊かにする。著者が念頭に置くのは、National Domestic Workers Alliance、Center for Community Change、Movement for Black Lives、National Guest Workers Alliance、Justice for Janitors、Sex Workers Open Universityなど。人種の節で示唆した通り、これらの視点は規範的な地形の空白に対応している。たとえばグローバル正義とUBI——非市民もUBIを受け取るべきか、UBIは多国間レベルで実施されるべきか——は研究が手薄な領域である。上記の団体の多くは移民労働者を包摂する政策を推進しており、多くの人にとって、移民が排除され、最富裕層から最貧層への地球規模の移転が考慮されないなら、UBIの解放的・反貧困的な潜在力は大きく損なわれる。
(3) 変革理論(theory of change)の確立
UBIを擁護する(あるいは反対する)際に前提とされている変革の理論をもっと明確にすべきである。Van der Veen & Van Parijsの「A Capitalist Road to Communism」(1986)はUBIを通じて公正な社会へどう進むかを示そうとした。ここからそこへの道筋は多数あり得るので、さらなる研究が有益な領域である。
最近の興味深い寄与としてGourevitch & Stanczyk(2018)は、UBI論者は物事を逆に捉えているのではないかと懸念する——組織された労働運動なしに獲得できるUBIは低すぎるだろう、と。支配階級・経営者階級が野心的な提案にすんなり同意すると考えるのは素朴であり、彼らが自らの収用に同意すると信じることに等しい。したがって左派は労働運動の再建に優先順位を置き直すべきだ、というのが著者らの主張である。
これに対する応答と代替的視座の余地は大きい。興味深い方向の一つが規範的変化(normative change)——自らの正義構想を変える能力——の潜在力である。UBIが「人々が互いに何を負っているか」の考え方を変え得る証拠が2つある。
- Mincome実験(1970年代、マニトバ州ドーフィン)。Calnitsky(2016)は、実験に関わった人々が公的扶助を道徳主義的に見る見方から実際的に見る見方へ変えたことを見出した
- アラスカ配当基金(Harstad Strategic Research 2017)。制度開始から年を経て、アラスカ州民は当初よりはるかに配当を支持するようになっていた。調査対象の大多数は、基金が枯渇した場合には所得税を財源とする配当で既存制度を置き換えることに賛同すると答えた。課税に総じて反対的な州において、これは非常に重要な発見である
普遍的な受給資格を経験し、誰もが定期的な足がかりに頼れる社会に生きることで、人々は支援と再分配一般に対する態度を変え得る。規範的変化が有望な道筋なら、UBIが真に変革的な政策になると考える根拠がある。
(4) 細部の精査
常に神は細部に宿る。UBI実施の一見些細な細部に潜む重要な価値判断を、政治理論家はなお論じる必要がある。給付額は特に重要である。Barryが有名な表現で述べたように、水準を定めずに基本所得そのものの利害得失を問うのは、トラとイエネコを区別せずにネコ科動物をペットにすることの利害得失を問うようなものである。
賛成派も反対派も、どの政策と比較しているのか、そしてより公正な社会という目標のためにUBIがどの政策パッケージを補完するのかを明確にしなければ、議論がすれ違う危険がある。比較対象は「UBI対それ以外すべて」ではない。ある時は資力調査型セーフティネット、ある時はBasic Capital、仕事保障、負の所得税、参加所得である。ある議論では他の条件を一定に保ち、別の議論では現行政策の他の変化との組み合わせを想像する。政治理論家の課題は、より広いパッケージの一部としてUBIが果たし得る具体的役割を示し、何がUBIを積極的変化のために道具的・必要たらしめるのかを問うことである。UBIの必要性を論証することは、それなしでは社会が根本的に不正になるような諸制度への支持を犠牲にする必要はない。しかしUBIが非常に大きな支出になる以上、この政策を擁護することは「それは何を置き換えるのか」という問いを不可避にする。UBIについて書く理論家は明確な答えを提示しなければならない。UBIが何を補完し何を置き換えるのかの明確さは、そもそもUBIが何を意味するのかの明確さと同じくらい重要である。
日本に当てはめるときの注意
ほぼ米国の制度と文脈が前提である。月1,000ドルという基準額、メディケアとの置換論、人種的ステレオタイプと福祉バックラッシュの関係などは、そのまま日本には移せない。
そのほか、日本の文脈で読み替えるべき点:
- 捕捉率とスティグマ:「受給がスティグマになるので捕捉率が下がる」「住所の提示など排他的な資格要件が障壁になる」という論点は、日本の生活保護をめぐる状況と強く重なる。比較の最も自然な入り口
- 世帯単位性:日本の社会保障は世帯単位の制度設計が米国以上に強固で、扶養控除・第3号被保険者など税・年金にも埋め込まれている。「個人単位化」の含意は米国以上に大きくなる可能性がある
- 労働組合の位置:労働組合がUBIに反対してきたという指摘は、企業別組合中心の日本の労働運動とは前提が異なる。Gourevitch & Stanczykの「組織労働なしにまともなUBIは獲得できない」という警告も、日本の組織率を踏まえると別の意味を帯びる
- 人種の節の読み替え:この節は米国固有性が最も高い。ただし「値する者/値しない者」の線引きが有害な二分法を生み、最も脆弱な人々の対等な地位を掘り崩すという構造そのものは、日本の生活保護バッシングにそのまま対応する
- 仕事保障との比較:日本ではUBIの対抗案として仕事保障(job guarantee)が十分に議論されていない。著者が繰り返す「比較対象を明示せよ」という要求は、日本のUBI論に最も欠けている作法かもしれない
- 著者の立場:Stanford Basic Income Labのファカルティ・ディレクターであり、Economic Security Projectの運営委員であることを開示している。UBI推進側に立つ論者によるレビューである点は踏まえて読む必要がある。ただし本稿は推進側の議論に対しても(自動化を根拠にすることの危険、Bergmannの逆効果論、ジェンダー規範の固定化リスクなど)かなり踏み込んで留保を付けており、単純な擁護論ではない
