研究の背景
所得と健康の相関は社会科学で最も強固に確認された関連の一つで、40歳到達者で比べると所得上位の男性は下位より15年近く長生きするとされる。この相関を因果と見なし、医療そのものではなく所得という「健康の社会的決定要因」に介入すべきだという主張が政策側で強まっていた。ただし米国の既存研究は実験・準実験ともに結果がまちまちで、因果関係は確立されていなかった。
方法と対象
実験設計はORUS共通(イリノイ・テキサス2州、21〜40歳、世帯所得が連邦貧困線300%以下の3,000人。1,000人に月1,000ドル、2,000人に月50ドルを3年間)。
健康については以下を収集:
- 自己申告の心身健康(Kessler 6、知覚ストレス尺度、PHQ-9、SF-12など)
- 採血によるA1c、コレステロール、GlycA(炎症マーカー)、血圧、BMI
- 国立がん研究所のASA24による栄養日誌(年3回)
- 社会保障庁の死亡記録(Census Numident)
- 信用情報上の医療債権
ベースラインで約29%が無保険、27%が費用理由で必要な受診を見送っていた。
結果
- ストレスと食料安全保障には大きな改善が出たが1年目限りで、2年目以降は消失
- 身体的健康は3年間を通じて改善が見られず、指標では0.02標準偏差の改善すら棄却できる
- 臨床指標(A1c、血圧、コレステロール、肥満など)も同様で、0.01標準偏差の改善が棄却される
- 死亡率に有意差なし(ただし信頼区間は広い)
- 一方、救急外来の受診確率は2.6ポイント(対照群比約11%)、入院確率は約1ポイント(約12%)増加
- 歯科受診は10%以上増加、医療支出は月20ドル増
- 所得と医療利用の横断的相関からは「所得が増えれば救急・入院は減る」と予測されるはずで、実際の結果は符号が逆
- 子どもの健康自体には効果なし。ただし予防接種が最新である確率は約8%上昇
- ベースラインで費用理由の受診見送りがあった層でのみ、健康・精神健康に正の(有意ではない)効果
日本に当てはめるときの注意
この論文の含意は日本では大きく変わる。著者は米国に国民皆保険がなく低所得層の約5人に1人が無保険であることを主要な経路として想定しており、結論として「所得を通じた健康改善より、医療保険の拡充や薬価引き下げなど医療に直接介入する方が有効かもしれない」と述べている。日本は既に皆保険なので、この「医療アクセス経路」自体がほぼ塞がっており、救急利用増という結果も再現しにくい。
そのほか:
- 著者自身、平均年齢30歳という若い集団かつ3年という短期であるため、より長期・より高齢の集団には一般化できないと明記している
- 実験開始が2020年11月とコロナ禍と重なっており、特に1年目の結果の一般化可能性は低い
- 採血が給付終了直後〜4ヶ月後に行われた点も限界として挙げられている
