UBI研究機構 資料データベース / 健康・幸福度 PAPER 16
健康・幸福度 / カナダ(マニトバ州ドーファン) / 準実験 / 2011

貧困のない町 — カナダの最低所得保障実験が健康に与えた効果

原題:The Town with No Poverty: The Health Effects of a Canadian Guaranteed Annual Income Field Experiment

種別
論文・研究資料
発表年
2011
地域
カナダ(マニトバ州ドーファン)
手法
準実験
出典
Canadian Public Policy, 37(3), pp.283–305(2011年)
この論文の要点
01

入院率の対照群との差が8.5%縮小した

02

精神疾患と事故・けがの入院が減った

03

出生や婚姻への効果は確認されなかった

研究の背景

カナダ連邦政府とマニトバ州は1974〜1979年、負の所得税方式の最低所得保障実験MINCOMEを実施した。なかでも人口約1万人のドーファンと周辺農村は、所得要件を満たせば地域の全世帯が参加できる「飽和地域」だった。しかし政権交代と予算不足により、当時収集したデータはほとんど分析されないまま保管された。

従来の北米の所得保障実験は労働供給を主に調べており、地域全体に所得保障が存在すると健康や教育がどう変わるかは十分に分かっていなかった。本論文は州の公的医療保険から生じる行政記録を使い、実験終了から約30年後にドーファンの健康アウトカムを再構成したものである。

方法と対象

MINCOMEは、他の所得がない世帯にカナダ統計局の低所得基準の60%を保障し、他の所得が1ドル増えるごとに給付を50セント減らす制度だった。給付額は物価に連動した。実際に一時点で給付対象となったのは地域世帯の約3分の1で、全住民が給付を受けたわけではない。

分析対象は1974年1月から1978年12月まで継続してドーファン市または周辺自治体に住んだ約12,500人である。期間中に転入・転出した人は除外した。各対象者について、ウィニペグ、先住民居留地、州北部など医療利用構造の異なる地域を除いた州内住民から3人の比較対象を選んだ。

項目内容
処置地域ドーファン市と周辺農村の全住民
比較対象年齢、性別、地域、家族人数・形態でマッチした州内住民3人
観察期間1970〜1985年、6か月単位
主な指標入院件数、医師受診件数、診断分類
補助指標進級、出生、出生体重、家族解消

マッチングは出生年、性別、家族人数、小都市・農村の別、母子世帯かどうかなどに基づき、性別と出生年は99%で完全一致した。一方、行政データには個人所得、雇用、民族、宗教がなく、これらを直接調整できない。分析は負の二項分布を用いた分割時系列モデルで、実験前から存在した両地域の差が実験中にどう変わったかを推定した。

結果

入院率の差は実験期間中に消えた

実験前のドーファンの入院率は比較対象より約8.5%高く、その差は1970〜1973年には安定していた。MINCOME開始後に差が縮まり、1978年末には統計的な差がなくなった。1973〜1978年のドーファンの相対的な低下は住民1,000人当たり19.23件で、95%信頼区間に対応する幅は±2.096件だった。

低下を主に構成したのは、事故・けがと精神疾患による入院である。事故・けがには労災、農作業事故、交通事故などが含まれる。精神疾患では不安、うつ、人格障害などを対象とし、州内の別施設へ入院した場合も記録した。どちらも実験前にはドーファンが高かったが、実験期間中に比較対象との差がなくなった。

医師受診は精神疾患に限って相対的に減った

全体の医師受診と事故・けがによる受診には明確な変化がなかった。精神疾患を理由とする医師受診だけはドーファンで相対的に減少し、推定値は5%水準で有意だった。入院より本人の選択に左右されやすい指標であるため、著者は客観的健康だけでなく、所得不安から来るストレスの変化を反映する可能性を示している。

教育には改善の兆候があった

州教育省の集計値では、実験期間中のドーファンで高校11年生から12年生へ進む割合が比較地域より高まった。実験の前後には同じ傾向がなかった。ただしこれは個人単位の追跡ではなく、人口構成も直接調整していない集計データである。著者は、低所得世帯の所得安定に加え、友人も進学するという地域的な波及があり得ると解釈するが、機序を識別した結果ではない。

出生・家族形成では予想された効果が出なかった

低出生体重、リスクのある出生体重、在胎週数に比して小さい新生児の割合に有意差はなかった。マニトバ州には当時すでに皆保険があり、農村では自家生産や狩猟も食料を補っていたため、所得増が妊婦の医療アクセスや栄養を変えにくかった可能性がある。

出生率の上昇は確認されず、若い出生コホートでは25歳までの出産がむしろ遅れる兆候があった。ただし宗教・民族の地域差を除けず、MINCOMEの効果とは断定していない。家族解消率の上昇も確認されなかった。

解釈上の限界

これは無作為化比較試験ではない。ドーファンでは新しい病院の存在などにより実験前から入院率が高く、観察できない地域差も残る。また、給付受給世帯を行政記録上で特定できないため、推定しているのは給付の個人効果ではなく地域全体の変化である。「社会的乗数」によって非受給者にも波及したという説明は仮説で、直接検証されていない。

さらに、David Greenによる後年の再分析は、本論文とは別の研究として、実験前トレンドと終了年の扱いによって入院の結論が変わり得ると指摘した。したがって8.5%を確定した因果効果としてではなく、モデル選択をめぐる論争のある推定値として読む必要がある。

日本に当てはめるときの注意

最大の障害は、1970年代の農村一地域を対象とした準実験であり、現代日本の全国制度へそのまま外挿できないことである。とくに入院率の結果は、後年の再分析で実験前トレンドへの感度が指摘されている。

  • MINCOMEは所得に応じて減額される負の所得税で、全員同額の狭義のUBIではない
  • マニトバ州も日本も公的医療保険を持つが、受診行動、病床供給、精神医療、農村人口構成は異なる
  • 地域全体への導入は個人単位RCTでは測れない波及を捉え得る一方、同時期の地域固有変化と区別しにくい
  • 医療費節約を論じるには、入院件数だけでなく医療単価、外来への代替、長期健康を日本のデータで測る必要がある
  • 教育結果は集計値であり、給付が進級を引き起こしたと断定できない
  • 本論文に利益相反の開示は見当たらないが、後続の批判と著者の応答も合わせて評価すべきである