研究の背景
日本政府は2020年、新型コロナ危機への対応として、年齢、所得、就業状態、国籍を問わず住民1人につき10万円を支給する特別定額給付金を実施した。世帯主の口座へ家族分をまとめて振り込む、全国規模の一時的な無条件給付である。本研究は、給付がどれほど消費に回り、どの世帯が強く反応したかを、高頻度の口座・決済記録から検証した。
自治体は申請書と振込口座を個別に処理する必要があり、支給日は2020年5月から8月まで大きくばらついた。同じ時期の景気や感染状況による消費変動を週固定効果で除き、この短期的には予測しにくい事務処理の差を自然実験として利用した。
方法と対象
個人向け資産管理サービスMoney Forward MEで特別定額給付金の入金が確認され、2020年3月30日から11月8日まで毎週少なくとも1件の取引がある利用者を対象とした。所得上位1%と週次支出上位1%を除いた標本は232,589人、週次観測は7,442,848件だった。平均給付額は225,294円で、女性の比率は28.2%、年齢中央値は37歳である。
給付前5週から給付後10週までのイベントスタディを推定し、利用者固定効果と週固定効果を入れた。消費は記録範囲の不確実性に対応して三つ定義した。
| 指標 | 含める取引 | 解釈 |
|---|---|---|
| 下限 | 食料・日用品、サービス、耐久財、支払いなど明示的支出 | 記録された購入のみ |
| 中心 | 下限+記録済み現金払いを除いたATM純引き出し | 引き出した現金の多くを使うと仮定 |
| 上限 | 中心+使途不明の口座流出 | 貯蓄・送金を消費に含む可能性あり |
流動性制約は、給付前月末の純流動資産が月間労働所得を下回ることと定義され、該当者は標本の19%だった。所得四分位、住宅保有、年齢、世帯人数、家族形態、支出分類別の異質性も調べた。
結果
支給直後に支出が増え、約6週間で弱まった
三つの消費指標すべてで入金週に明瞭な増加があり、その後は徐々に縮小した。給付後6週間の累積限界消費性向は、明示的支出だけの下限で0.06、ATM引き出しを加えた中心推計で0.16、使途不明取引まで加えた上限で0.27だった。したがって「10万円のうち1万6千円を消費した」は中心的な仮定に基づく値であり、観測できない現金の使途によって幅がある。
低所得層と流動性制約世帯が強く反応した
労働所得が最も低い四分位の反応は、残る三群より大きかった。純流動資産が月間労働所得未満の世帯も、特に入金週に大きく支出した。この差は持ち家世帯に限定しても見られ、住宅資産があっても手元資金が乏しい「資産はあるが流動性がない世帯」と整合する。
一方、政府が当初検討した「前年から所得が減少し、現在所得も一定以下」という対象条件を再現すると、対象世帯の限界消費性向が明確に高いとはいえなかった。両年とも労働所得がない反応の大きい世帯を条件から外してしまうためで、対象給付の成果は細かな資格要件に左右される。
多くの分類で増えたが、非耐久財は増えなかった
食料・日用品、サービス、耐久財、ローン・家賃等の支払い、分類不能支出は増加した。耐久財は平均支出に対して約15%の増加と試算された。これに対し、衣服、医薬品、家庭内娯楽などの非耐久財には増加が確認されなかった。子どもの有無による反応差も明瞭でなかった。
日本に当てはめるときの注意
最大の障害は、家計簿アプリの利用者だけを対象とし、現金引き出しが消費か貯蓄かを直接観測できないことである。
- Money Forward ME利用者は全国人口より若く、女性が少なく、東京居住者が多い。資産登録も公的統計より少なく、全国平均を代表しない
- 入金時にアプリから高額取引の通知が届くため、一般世帯より支出反応が鋭く出た可能性がある
- 支給時期は行政能力だけでなく、自治体や申請方法、申請の早さにも左右される。短期的に予測不能という識別仮定を完全には検証できない
- コロナ禍の行動制限と需要抑制下における一時金であり、平時の恒久的UBIの消費反応とは区別が必要である
- データはMoney Forward社内で匿名化・処理され、著者は見解が同社を代表しないと明記した。日本法政学会財団が研究を支援した
- 公開PDFは2021年4月のCREPE Discussion Paper版で、書誌情報は同年の査読掲載版である
