研究の背景
児童手当は子育て費用を軽減する一方、労働以外の所得を増やすため、母親の就業を抑える所得効果を持ち得る。日本では2010年に所得制限が撤廃されたが、財政上の理由から2012年4月に再導入された。所得基準を超えた世帯では、月額給付が子ども1人当たり1万円または1万5千円から5千円へ減った。
本研究は世帯ごとに異なる所得基準の直前・直後を比較し、給付削減が母親の就業、保育サービス支出、子どもの健康を変えたかを検証した。給付拡大ではなく削減を分析しているため、結果の符号を逆にして「給付を増やせば同じ幅だけ就業が減る」とみなすには追加の仮定が必要である。
方法と対象
厚生労働省「21世紀出生児縦断調査」の2010年出生コホートを用いた。対象は2010年5月10〜24日に生まれた子どもがいる全世帯で、毎年12月に追跡された。分析用データは2011年と2012年の延べ43,767世帯観測で、各推定の標本は欠測と最適帯域により約8,500〜29,000件だった。
児童手当の所得基準は、所得の高い親の年収、扶養親族数、配偶者控除で決まる。実際の年収から世帯固有の基準を引いた値を走行変数とし、基準を超えて給付が削減された世帯と直下の世帯を局所線形回帰で比較した。Imbens–Kalyanaramanの最適帯域と三角カーネルを用いた。
主要成果は母親の就業有無、週労働時間、年間勤労所得、就業形態、月間保育費、対象児の疾病・負傷と入院である。前年に同じ不連続がなかったか、所得を基準以下へ操作した形跡、共変量のバランス、帯域を半分・2倍にした推定も確認した。
結果
給付削減後、母親の就業が増えた
所得基準の直上では、年間児童手当が約165,200円減った。母親の就業確率は6.89パーセントポイント上昇(p=0.0106)、週労働時間は2.718時間増加(p=0.0038)した。母親の年間勤労所得は約310,400円増え、給付減を上回ったが、p=0.0533の境界的な結果で、帯域を変えると有意でなくなった。
就業形態では専業主婦が8.77ポイント減り、パートが5.53ポイント、自営業が3.90ポイント増えた。正規就業の1.83ポイント増は非有意だった。給付削減によって高所得世帯の母親が正規雇用へ復帰したという証拠ではない。
一部は出産前の仕事と異なる形で復職した
2012年にパートだった母親への効果を出産前の状態別に分けると、約53%は出産前もパート、約27%は正規雇用、約20%は非就業だった。出産前に正規雇用だった層の多くは、出産後にいったん離職し、2012年にパートとして戻ったと推定された。自営業への効果は主に出産前も自営業だった母親による。
この経路分析は、給付削減が就業復帰を促した一方、正規雇用でのキャリア継続を実現したわけではないことを示す。
保育費と子どもの健康は変わらなかった
月間保育サービス支出の推定値は約778円増だったが非有意(p=0.7145)だった。子どもの疾病・負傷は-0.8ポイント、入院は+0.99ポイントで、いずれも非有意だった。母親の就業増が短期の健康悪化を招いた証拠はないが、健康指標は粗く、長期発達を評価したものではない。
日本に当てはめるときの注意
最大の障害は、所得基準付近の比較であり、低・中所得世帯や全国の母親にそのまま一般化できないことである。
- 推定は高所得側の局所平均処置効果で、給付の新設・増額や恒久的UBIとは制度も対象も異なる
- 扶養控除の縮小による税負担増が近い時期に起きた。論文は頑健性を確認したが、児童手当削減だけを完全に分離できない
- 父親の税負担、出産前の母親の非就業、出産後の育休付き正規就業に基準前後の差があり、共変量調整後も係数の大きさは動く
- 年間勤労所得とパート就業の結果は帯域選択に敏感である
- 疾病・入院は短期の二値指標で、認知能力、非認知能力、親子関係、長期健康を測っていない
- JSPS科研費(JP19J12418)とパーソル総合研究所が研究を支援し、著者は競合する利害関係なしと申告した
- 公開PDFは2020年のIZA Discussion Paper版で、題名は “Can Childcare Benefits Increase Maternal Employment?”、書誌情報は2022年の査読掲載版である
