UBI研究機構 資料データベース / 労働供給 PAPER 12
労働供給 / イラン / 準実験 / 2018

全国民への現金給付は労働を減らしたか — イランの大規模制度からの証拠

原題:Cash Transfers and Labor Supply: Evidence from a Large-Scale Program in Iran

種別
論文・研究資料
発表年
2018
地域
イラン
手法
準実験
出典
Journal of Development Economics, 135, pp.349–367(2018年)
この論文の要点
01

平均的な労働供給の減少は見られない

02

20代では週労働時間が約9時間減少

03

信用制約の緩和が就労を増やす場合も

研究の背景

イラン政府は2010年12月、パンとエネルギーへの巨額の価格補助を縮小し、その補償として一人当たり同額の現金を世帯の銀行口座へ振り込み始めた。2011年には75百万人超、人口の95%以上が受給し、総額はGDPの6.5%、一人当たり給付は家計の一人当たり中央値所得の約28%に達した。

制度には、所得が増えても給付を失う「給付の崖」がなかった。それでも、不労所得の増加が余暇を増やし、特に貧困層を働かなくさせるとの批判が強かった。同時期には国際制裁の強化と景気後退も起きており、導入前後の単純比較では給付効果を識別できない。著者らは、給付開始時期と家計にとっての給付規模に生じた差を利用した。

方法と対象

データはイラン統計センターの全国代表的な家計支出所得調査(HEIS)2010年・2011年である。同じ世帯を翌年にも調査する回転パネルから個人を接続した。

  • 2010年の全標本:152,291人、38,285世帯
  • 翌年調査予定のパネル:104,703人、26,180世帯
  • 実際に再調査できた人数:68,925人
  • 世帯構成の変化や個人照合の不整合を除いた分析用パネル:46,517人、11,631世帯
  • 主な対象年齢:20〜59歳(労働時間の一部分析では就業者・賃金労働者などに限定)
  • アウトカム:週労働時間、労働力参加、就業状態

識別には二つの方法を使う。

  1. 固定効果推定:給付からエネルギー支出増を引いた純給付額を、導入前年の一人当たり家計支出で割った「処置強度」を用いる。純給付は最上位五分位では前年支出の4.9%、最下位五分位では49.3%だった。
  2. 差の差(DID):登録書類や世帯主証明などの事情で人口の約30%が登録再開まで3か月待ったことを利用する。早期受給者は比較する両期に給付を受け、後期受給者は後半期にのみ受けた。

固定効果では個人に変わらない特性を除き、DIDでは居住地、教育、世帯主の性別、年齢、婚姻、非勤労所得などを調整した。標準誤差は不均一分散に頑健な方法を用いた。

パネルの脱落は重要な問題である。翌年調査予定者からの脱落率は34%で、さらに世帯構成が変わった世帯を除くと元のパネルの67%が残った。都市部、借家、高所得世帯ほど脱落しやすく、無作為脱落の検定は棄却されたため、著者らは推定した残存確率の逆数で重み付けした。

結果

全体として労働時間・参加率は減らなかった

固定効果推定では、男性の週労働時間に対する処置強度の係数は負ではなく有意に正、女性はゼロに近く有意でなかった。DIDでは男女とも平均効果が有意でなく、現金給付が週労働時間を減らしたという証拠は得られなかった。

労働力参加についても、早期・後期受給者の比較と、処置強度25%以上の家計と10%以下の家計の比較のいずれでも、男女の参加率低下は確認されなかった。2010年と2011年の参加率は男性がともに約88%、女性がともに約18%だった。

査読版は、女性と自営業男性では労働供給が増えたと報告している。これは、現金が零細事業の信用制約を緩め、仕事を縮小する所得効果より事業拡大の効果が上回り得る、という著者らの説明と整合する。

20代では労働時間が減少した

20〜29歳に限るDID推定では、後期受給者の週労働時間が早期受給者に比べて平均約9時間減少し、統計的に有意だった。働きながら学んでいた若者では点推定値が−23.5時間だったが、観測数が少なく有意ではない。

著者らは、若者は仕事との結びつきが弱く、高等教育・大学院へ進む選択肢があるためと考える。ただし調査に時間利用データがなく、減った時間が教育に向かったのか余暇に向かったのかは判別できない。

産業別では農業の離職説を支持しない

農業と工業では負の効果は確認されなかった。サービス業の固定効果推定では、処置強度が10ポイント高いと週労働時間が約36分増加した。DIDのサービス業推定も正だが有意ではない。小規模な自営業の多いサービス業で、給付が運転資金になった可能性を著者らは挙げる。

結果を限定する要因

著者らは、平均的な負の効果が見えなかったことを「どんな現金給付でも労働供給を減らさない」という結論にはしていない。

  • 2011年の制裁強化が所得層や職種によって異なる労働需要ショックを生んだ可能性がある
  • DIDは、3か月遅れても将来の遡及払いを担保に借りられないという信用制約を前提にする
  • 女性の労働市場は所得・教育で強く分断され、導入前の並行トレンドも男性ほど明瞭でない
  • 個人の労働供給だけを推定し、世帯内で一人が就学し別の一人が労働を増やすような調整を捉えない
  • パネル脱落は大きく、重み付けで補正しても完全には解決しない

なお、公開PDFは2017年のERFワーキングペーパー版である。上記の中心結論は2018年の査読版と共通するが、査読版では女性・自営業男性の正の効果がより明確に整理されている。

日本に当てはめるときの注意

最大の障害は、この制度がエネルギー補助金の急激な廃止と同時に導入された補償給付であることだ。純粋な所得追加としての日本版UBIとは、家計が直面した価格変化も財源も異なる。

  • 給付開始時の規模は大きいが、高インフレで実質価値が急速に低下した
  • 労働・信用市場の割当、女性の低い参加率、自営業・非公式就労の多さが日本と異なる
  • 研究期間は導入直後の2年間で、恒久制度への長期反応を測っていない
  • 20代の労働時間減を「悪化」と即断できない。就学への移行なら人的資本形成になり得るが、本研究は確認できない
  • 全国一律給付で受給資格の所得制限がなかった点は、日本で給付の崖を避ける設計を考える際に参考になる
  • 給付が零細事業の資金制約を緩和する経路は、日本でもフリーランスや小規模事業者について検討する価値がある