UBI研究機構 資料データベース / 健康・幸福度 PAPER 53
健康・幸福度 / 日本 / 理論・静学的厚生分析 / 2022

医療保険をベーシックインカムへ置き換えると厚生は改善するか — 健康資本モデルによる分析

原題:健康とベーシックインカムに関する厚生分析

種別
論文・研究資料
発表年
2022
地域
日本
手法
理論・静学的厚生分析
出典
『東京国際大学論叢 経済学研究』第6号、pp.1–16(2022年)
この論文の要点
01

医療保険とBIを同一モデル内で比較した

02

寛大な医療保険ほど代替に高額BIが必要となる

03

単純化が強く実際の健康効果は推定していない

研究の背景

ベーシックインカム(BI)を既存の社会保障制度へ追加するのか、制度の一部または全部と置き換えるのかで、その厚生効果は大きく変わる。失業保険や生活保護とBIを比較する理論研究はあるが、健康リスクと医療保険に焦点を当てた経済理論研究は限られていた。

本稿は、健康を時間とともに形成・減耗する資本として捉えるGrossmanの健康資本モデルを簡略化し、日本の公的医療保険を模した制度と、それを廃止してBIを導入する制度を比較する。目的はBIが健康を改善したという実証効果を測ることではなく、どのような制度条件なら個人の期待効用が高くなるかを分析する枠組みを示すことである。

方法と対象

実データを使わない静学的な理論モデルである。個人は一定の所得を持ち、病気になる確率に直面する。健康状態は「病気」か「健康」の二状態とし、病気のときだけ医療サービスが効用を高めると仮定する。健康なときの予防・健康増進行動は扱わない。

比較する制度は次の二つである。

制度医療費負担給付・財源主な仮定
既存医療保険を模した制度自己負担割合と月額上限があり、残りを保険が負担保険料と所得税による政府移転保険運営主体は収支均衡
医療保険を廃止したBI制度公的保険はなく、医療費を課税所得から控除所得税収の範囲で全員へ一定額BI政府給付は期待税収以下

効用は一般消費財と医療サービスから生じ、両者は弱い補完関係にあると置く。医師と患者の情報格差や医師誘発需要はなく、医師が患者の利益に沿う完全な代理人として行動すると仮定する。

まず各制度で最適な医療サービス消費を導き、その後、両制度で病気のときに選ぶ医療量が同じという追加仮定を置いて、BI導入後の期待効用が既存制度を上回るための条件を導出する。附録では最適化条件と比較静学を証明する。

結果

医療保険の寛大さは医療サービス利用を増やす

既存医療保険を模した制度では、自己負担割合が低いほど、また自己負担上限が低いほど、最適な医療サービス消費量は多くなる。これは寛大な保険ほど患者の追加的な医療費負担が小さくなり、医療利用が増えるという事後的モラルハザードの理論と整合する。

モデル上の比較静学であり、実際の患者が何回多く受診するか、健康状態や寿命がどれだけ変わるかを示す数値推定ではない。

BI額が増えると医療サービス消費も増える

医療保険を廃止した制度では、外生的に与えられるBI額が高いほど、病気のときに選ぶ医療サービス消費が増える。現金給付によって医療費と一般消費の双方へ使える予算が増えるためである。

ただし政府予算では、BIは所得税収の範囲に制約される。論文は特定の税率や給付額を当てはめた数値シミュレーションを行っていない。

既存保険が寛大なほど、高額なBIが必要となる

両制度で病気時の医療サービス量が同じと仮定すると、BIへの置換で厚生を改善するには、給付額が一定の閾値を超える必要がある。閾値の方向は次のように整理される。

制度パラメータの変化厚生改善に必要なBI水準
医療費の自己負担割合が上がる低下する
自己負担上限が上がる低下する
所得税率が上がる上昇する
罹患確率が上がる低下する

最初の二つは、既存保険が寛大であるほど、それを廃止して同等以上の厚生を実現するBIには高い金額が必要だという意味である。所得税率については、BI給付に伴う税負担を補うだけの給付が必要になる。

罹患確率が高いほど必要BIが低くなる結果は直感に反する。著者は、両制度で病気時の医療量を同じに固定したため、健康時の一般消費から得る効用を相対的に強く評価するモデル構造から生じたと説明する。現実には制度が変われば医療量も変わるため、この比較結果には特に強い留保が必要である。

本稿が示すのは条件であって、政策の優劣ではない

結論は「BIが医療保険より優れている」ではない。既存制度の自己負担、給付、保険料などを明示し、BIに置き換えたときの税負担と給付額を同時に比較しなければ厚生を判断できない、という分析上の要請である。

著者は、現実的な健康評価には、健康投資が将来の健康へ確率的に影響する動学モデルが必要だとする。医療以外の失業・生活保護、労働供給、所得と健康の相互作用まで含めると、静学モデルだけでは総合的な政策評価ができないと明記している。

日本に当てはめるときの注意

最大の障害は、日本の患者・家計データを使わない強く単純化された理論モデルで、BIの実際の健康効果や必要金額を推定していないことである。

  • 健康状態を病気・健康の二状態に限り、病気なら医療が必ず効用を高める。治療効果の不確実性、慢性疾患、予防、介護、健康行動は入っていない
  • 医師と患者の情報格差、供給者誘発需要、地域の医療アクセス差を除外している。日本の出来高払い制度の実態を再現したモデルではない
  • BI制度では公的医療保険を廃止する一方、医療費を課税所得から控除する。純粋な無保険・定額給付案ではなく、この設計に結果が依存する
  • 厚生比較では両制度の医療サービス量を同じに固定している。罹患確率に関する直感に反する結果も、この仮定から生じる
  • 所得、罹患確率、税率を全員共通に扱い、年齢、所得、障害、疾病リスク、医療費の大きな個人差を捨象する
  • 失業保険、生活保護、年金、介護保険を同時に置換した場合や、労働供給・賃金・物価・医療供給への波及は分析していない
  • 査読者への謝辞はあるが、研究資金・利益相反を独立して申告する欄は確認できない