研究の背景
無条件の基礎所得は、所得効果によって労働を減らすとも、よりよい仕事を探す余地や交渉力を与えるとも論じられる。著者らの探索・マッチングモデルでも、留保賃金、失業期間、雇用率、賃金と職場アメニティの配分への影響は理論的に一意に決まらない。高所得国で十分に大きく長期の基礎所得を無作為に給付し、自己申告だけでなく行政記録で労働反応を測った証拠は限られていた。
方法と対象
共通設計は[ドイツ基礎所得パイロット索引](00_ドイツ基礎所得パイロット_索引と共通設計.md)の通りである。2021年6月から3年間、処置群には月1,200ユーロを無条件・非課税で給付した。開始時の世帯所得に対して46〜110%の増加に相当する。
| 群 | 人数 | 処置 |
|---|---|---|
| 基礎所得群 | 107 | 月1,200ユーロを36か月 |
| 対照群 | 1,580 | 給付なし、同じ追跡調査 |
対象は21〜40歳、単身世帯、月間純所得1,100〜2,600ユーロ、開始時に長期失業中でない者である。約204.8万人の応募者から2万人をベースライン調査へ招待し、8,971人の適格回答者を得た。53ブロックを作り、各ブロックから2人を処置群へ割り付けた。
主要データはドイツ雇用研究所の行政記録で、雇用、賃金、失業給付、税・社会保険料を日次で把握する。連結できたのは処置99人、対照1,278人だった。半年ごとの調査では労働時間、自営、教育・訓練、求職行動などを測った。各回の回答率は概ね80〜90%で、81%が少なくとも4回の追跡に回答した。推定はベースラインからの変化を群間比較し、層別割付に対応した標準誤差と置換検定を報告した。
結果
雇用率は変わらなかった
行政記録による主要推定は次の通りである。係数は処置群と対照群のベースラインからの変化の差である。
| アウトカム | 推定効果 | 標準誤差 | p値 |
|---|---|---|---|
| 雇用 | −0.3ポイント | 2.5ポイント | 0.917 |
| フルタイム雇用 | −5.1ポイント | 2.7ポイント | 0.065 |
| パートタイム雇用 | +3.0ポイント | 3.1ポイント | 0.320 |
| 失業給付(月額) | +2.61ユーロ | 12.70ユーロ | 0.837 |
雇用率の95%信頼区間は概ね±5ポイントの外側を除外する。フルタイムからパートタイムへの小さな移動を示す点推定はあるが、個別には通常の5%水準で有意ではない。非雇用から就職する確率、在職者が別の仕事へ移る確率にも有意な変化はなかった。
労働時間と所得の減少も不確実だった
調査データの週労働時間は1.35時間減ったが、標準誤差1.02、p=0.185であった。自己申告の月間純稼得は97.63ユーロ減少し、p=0.051と境界的だった。教育・訓練への在籍は2.6ポイント増えたがp=0.327、自営は0.3ポイント増でp=0.897だった。
在職中の求職では、応募件数や求職時間が減る傾向があったものの、Fisherの正確検定でそれぞれp値は約0.052、0.056で、著者らも確定的な効果とはしていない。通勤距離は約3.4km短くなる点推定だったが精度が低かった。仕事の移動や職の質が明確に改善したという証拠はない。
政府収入の減少は月約94ユーロの点推定だった
| 財政・所得項目(月額) | 推定効果 | 標準誤差 | p値 |
|---|---|---|---|
| 所得税 | −41.78ユーロ | 24.27ユーロ | 0.085 |
| 社会保険料 | −49.11ユーロ | 37.12ユーロ | 0.186 |
| 政府収入合計 | −93.66ユーロ | 66.85ユーロ | 0.161 |
| 純稼得 | −53.83ユーロ | 50.59ユーロ | 0.287 |
いずれも5%水準で有意ではない。月1,200ユーロの給付に対する政府収入減の点推定から、著者らは超過負担を約7.5〜8%と計算する。ただしゼロも含む不確実な推定であり、「財政コストが8%と確定した」とは読めない。また給付元本や財源調達の歪みを含む全国制度の総費用ではない。
日本に当てはめるときの注意
最大の障害は、民間寄付で賄った107人への期限付き純給付であり、全国制度の増税や既存給付の置換を一切再現していないことである。
- 単身、21〜40歳、開始時に長期失業していない人に限られ、子育て世帯、高齢者、生活保護受給者への外挿はできない
- 処置群が小さく、フルタイムからパートタイムへの中程度の移動を検出し切れていない。非有意は完全な無効果を意味しない
- 行政記録は自営業者や公務員の一部を十分に捉えず、調査結果には自己申告誤差がある
- 3年間と恒久制度では将来期待が違い、企業の賃金設定、物価、労働需要、財源税制などの一般均衡効果も測っていない
- 日本の税・社会保険、世帯単位の公的扶助、長時間労働慣行はドイツと異なる
- 実施主体の Mein Grundeinkommen は基礎所得推進団体で、主に小口寄付で実験を実施した。独立した利益相反申告欄はないが、論文は実施協力を明示し、行政記録によって自己申告の需要効果を抑えている
- 本稿は査読前のDIW Discussion Paperであり、将来の査読版で推定や表現が更新される可能性がある
