研究の背景
UBIは職の二極化や格差といった現代の労働市場の問題を緩和するのではないか、という期待が広く語られてきた。もう一つの定番の論拠は、現行の社会保障が福祉の罠(welfare trap)を生み、過度に複雑で非効率だというもの。推進派によれば、BIは働く努力に報いる簡素な制度で保証所得を提供することで、これらに対処できる。
本研究は、先進国で初めて全国規模で実施された基礎所得のランダム化実験を分析する。
方法と対象
対象:2016年11月時点で社会保険庁(Kela)から最低水準の失業給付(第2種=定額・資力調査なし、第3種=定額・資産調査あり)を受給していた25〜58歳の全員、計175,222人。
割り当て:2016年12月15日、そこから2,000人を単純無作為抽出して処置群とした(対照群173,222人)。法律で実施されたため参加は強制で、非遵守の問題がない。
処置内容:2017〜2018年の2年間、月額560ユーロ(631ドル)の非課税・無条件の基礎所得を支給。
制度設計の要点:
- 失業中の可処分所得は変わらない(基礎所得はほぼ手取りの失業給付と同水準)
- 就労しても基礎所得は減らない。通常の失業給付は月300ユーロを超える収入に対し50%の限界税率で減額される
- 税率表は変えていないので、実効限界税率が大幅に低下
- 求職要件・監視・再就職サービスの義務がすべて免除された
- 子ども加算がないため、処置群の42%は失業中の給付が下がる。彼らは差額を申請でき、申請すれば従来通りの義務が課される(=この層には「インセンティブは改善するが義務は残る」という別の処置になった)
インセンティブの変化の大きさ:月2,000ユーロのフルタイム職(フルタイム中央値の62%)に就く場合の参加税率(PTR)は平均65.5%から42.5%へ、23ポイント低下。月1,000ユーロのパートタイムでは11.8ポイント低下。
データ:Kela、経済雇用省、フィンランド年金センター、税務当局、住民登録の行政記録を個人識別番号で接続。雇用契約の開始・終了日、求職者登録、積極的労働市場政策(ALMP)参加、給付の支払日と金額をすべて把握。主要アウトカムは事前登録された「補助金なし労働市場での就業日数」。
対象層の特性:最低失業給付の受給者は労働市場での見通しが悪い特性が過剰代表される集団。基礎教育のみの割合は同年齢の全人口の2倍(32% vs 15%)、公用語以外を母語とする割合も高く(25% vs 9%)、単身世帯が多く(40% vs 29%)、健康上の理由で就業見込みが弱いと判定された者が16%。
結果
主要結果:1年目の雇用効果はゼロ
2017年の就業日数の処置効果は1.5日(95%信頼区間 −2.3〜5.4日)。対照群の平均が年49日であることと対比される。統計的に有意でないだけでなく、信頼区間が十分に狭く、経済的に意味のある効果は棄却できる。労働所得も9.1ユーロ増(実質ゼロ)で、これを裏づける。
月次のグラフでも、対照群の就業率は8%から18%へ上昇したが、処置群はこのトレンドをほぼ完全に追随しており、どの月の差も有意でない。
2年目は6.6日(95%CI 1.3〜11.9、対照群比8.6%増)で有意になる。 ただし2018年1月1日に失業給付制度の改革(3か月間にALMPに5日参加するか18時間働かないと給付を4.65%削減)が施行され、両群に非対称に影響した。著者は2年目の結果を実験と改革の複合効果としてしか解釈できないと明記し、1年目を主たる結果としている。
義務を外しても人々は制度から離れなかった
これが本論文のもう一つの発見である。
- 実験開始1年後、基礎所得受給者の約半数はなお失業給付を申請していた。つまり再就職サービス、監視、報告のすべてに自ら参加し続けた
- 1年目に処置群の3分の2が、ケースワーカーとの面談で就労計画(employment plan)を作成した
- ALMPの参加日数は対照群より11%少ないだけ(2017年)。処置群も年間約100日をALMPに費やしている
- 制裁通告を受けた割合の差も2017年で23%、2018年で5%にとどまる。ALMPを本当に嫌っているなら、制裁が基礎所得に一切影響しない以上、もっと大きな差が出るはず
著者の解釈:ALMP参加中に支払われる給付の上乗せが理由。参加者は1日4.74ユーロの補助を200日分、加えて1日9ユーロの非課税の経費補償を受け取れる。平均的な参加者にとってこれは失業給付の13.7%増に相当し、余暇を失うコストを上回る金銭的動機になっている。
その他の副次アウトカム(2017年)
| アウトカム | 対照群平均 | 処置効果 |
|---|---|---|
| 就業日数 | 49.06日 | +1.54(n.s.) |
| 課税所得(基礎所得込み) | 11,965ユーロ | +1,362 |
| 労働所得 | 4,251ユーロ | +9.10(n.s.) |
| 傷病手当 | 216.4ユーロ | −100.1 |
| 住宅手当 | 2,509ユーロ | −31.92(n.s.) |
| 生活保護 | 1,344ユーロ | −429.6 |
| ALMP日数 | 109.5日 | −12.53 |
傷病手当の減少は注意が必要と著者は述べる。傷病手当は失業給付と同水準なので金銭的動機は乏しいが、失業給付に伴う義務を免除する効果があり、また障害年金の申請には1年の傷病手当受給が必要になる。基礎所得受給者の一部が申請を先送りした可能性がある。
異質性
事前登録された部分集団分析では、2017年に有意な差は一つもない。しかも点推定値のパターンは予想と逆で、インセンティブの改善が大きい群ほど雇用反応が小さい。参加税率の低下幅が最大の第3三分位では点推定値が負である。子どものいるカップルはインセンティブ改善が小さいのに効果が大きい。著者はサンプルサイズの制約から慎重な解釈を求めている。
先行研究との対比
カナダのSelf-Sufficiency Project(SSP)の参加弾力性0.38をフィンランドに当てはめると、就業率は約25%上昇するはずだった。実際の信頼区間はこれを大きく外れる。1年目の上限値からは、参加弾力性が0.16を超えることは棄却できる。
著者が挙げる差異の説明:
- SSPは主に長期の福祉受給者であるシングルマザー、EITCは大家族とシングルマザーを対象としたが、フィンランドの実験ではまさにこれらの層でインセンティブ改善が最も弱かった
- SSPやEITCは低賃金のフルタイム職に就く動機を最も強く与えたのに対し、フィンランドの実験で最大の給付増を得るには月1,700ユーロ以上の賃金が必要。この水準は多くの受給者にとってそもそも到達不能だった可能性
著者の結論(4つの教訓)
- 金銭的インセンティブの改善は、就職困難層には無効な政策手段になり得る。とりわけインセンティブの改善が比較的高い賃金水準でピークを迎える場合。長期失業率が高く、最低賃金が比較的高く、社会的セーフティネットが手厚い多くの欧州諸国に当てはまる
- 労働市場で最も困難を抱える人々は、驚くほど官僚制と再就職サービスに関わり続けたがる。ネット申請が容易になりすぎて、必要がなくなっても申請し続けている。「官僚的な罠」の証拠を探すなら、給付の複雑さ(異なる給付制度の相互作用)の方が有望なテーマだろう
- 金銭的な上乗せで参加を誘引するALMPは、ALMPが持つ「脅し効果」を打ち消している。参加中は求職が必然的に減り、多くのプログラムの雇用改善効果は乏しいのだから、善意の政策がかえって失業問題を悪化させている可能性がある
- 先進国のUBI論には現実主義が必要。この実験は、現実的な全国政策では到底提供できないほど大きなインセンティブ改善を与えたのに、短期の雇用効果を何も生まなかった。BIモデルが財政的に成立するには増税が必要で、それは就業者の側に負の雇用効果を持ち得る。既存の全給付を置き換える水準に設定した場合も同様である
そして最後に、「長期失業者の具体的な問題を直接ターゲットする介入の方が、少なくとも就業見通しの改善という点ではBIより成果を上げるかもしれない」と述べる。
日本に当てはめるときの注意
この実験は「BIの実験」として報じられたが、実際に測ったのは「最低失業給付をBIに置き換えたときの雇用効果」である。この点の混同が国際報道でも起きた。対象は失業給付受給者に限定され、就業者は含まれない。したがって「全国民へのBI」の評価としては読めない。
そのほか:
- 設計が政治日程に大きく制約された。当初は就業者も含む対象を想定していたが、税制パラメータ変更が間に合わないという税務当局の判断で縮小された。政府は政治的理由で延期を望まなかった。日本で実験を設計する際にも同じ制約が生じる
- 実験期間が2年と短く、2年目に別の制度改革が重なって識別が壊れた。実験と制度改革のタイミング調整は、日本で実験を行う場合の実務的な最重要論点
- 「義務を外しても人々はサービスに通い続けた」という発見は、ハローワークと職業訓練受講給付金を持つ日本にも直接示唆がある。訓練期間中の給付上乗せが参加動機になっている構造は日本にも存在する
- 子ども加算の扱いによって処置群の42%に別種の処置がかかってしまった点は、日本で児童手当・扶養控除と組み合わせる際の設計上の教訓になる
- フィンランドの給付水準(月560ユーロ)は最低失業給付とほぼ同額。日本で同種の実験を組むなら「生活保護の生活扶助と同額」あたりが対応する
補足:ウェルビーイングの結果について
本論文は行政記録による雇用効果に特化しており、主観的ウェルビーイングは扱っていない。同じ実験の最終報告(Kangas, Jauhiainen, Simanainen & Ylikännö 編, 社会保健省 2020:15)では、基礎所得群の主観的ウェルビーイングが多様な指標で明確に高く、生活満足度の平均(0〜10)は基礎所得群7.3、対照群6.8だったと報告されている。ただし調査票の回答率などに問題があり、研究グループ自身が確定的な判断はできないとしている。
- 中間報告(英語全文):https://ubiru.org/wp-content/uploads/2020/03/2019_Finland_Report_The-Basic-Income-Experiment-2017-2018-in-Finland.pdf
- 最終報告の告知(英語):https://vatt.fi/en/-/results-of-the-basic-income-experiment-small-employment-effects-better-perceived-economic-security-and-mental-wellbeing
記事で「フィンランドの実験ではウェルビーイングが改善した」と書く場合、その根拠は本論文ではなく最終報告の調査部分であり、雇用効果ほど頑健ではない点に注意が必要です。
